加藤明の経歴は?ペルー女子バレーを育てた英雄がアンビリバボーに!
今夜19時57分からの「奇跡体験!アンビリバボー」に、地球の裏側にある南米ペルーで愛された1人の日本人、加藤明氏が紹介される。
日本の女子バレーチームが“東洋の魔女”と恐れられていた1965年、加藤氏はペルー女子バレーチームの監督として招かれ、今でもペルー国民から親しまれている。
そんな加藤氏は、女子バレーボールの大恩人として、フジモリ元大統領と並ぶ人気を集めた日本人だ。
今回は、バレーの弱小国だったペルーを変え、異国の地で国民的英雄になった日本人、加藤明氏をご紹介したい。
ペルー女子バレーを育てた英雄、加藤明とは?
プロフィール
名前:加藤明(かとうあきら)
ラテン文字:Akira Katō
生年月日:1933年1月3日
没年月日:1982年3月20日(49歳)
出身地:神奈川県小田原市
出身校:慶應義塾大学法学部
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日本バレーボール界に貢献
1933年(昭和8年)神奈川県小田原市に生まれた加藤氏は、8歳の頃にローラースケートで遊んでいる際に腕を骨折。リハビリとして始めたバレーボールにのめりこみ、中学高校はバレーの練習に明け暮れたそうだ。
加藤氏は慶應義塾大学法学部に進み、在学時からバレーボールの選手として活躍し、全国区にその名を知らしめる。
1955年に実業団の名門「八幡製鉄」に入社し、1960年から八幡製鉄の主将になり、その年に世界選手権に出場。
日本代表にも選ばれたが、世界選手権に出場した後、現役を引退する。
引退後の1961年から母校の慶應義塾大学の監督に就任し、2部リーグで低迷していた慶應を、1964年の全日本大学選手権では優勝にまで導く。
当時の日本女子バレーボールは東京五輪で金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と恐れられていた時代で、日本女子バレーボールの黄金時代だった。
そんな中、加藤氏に転機が訪れる。
1965年、ペルーから女子バレーボールチームの監督の要請があったのだ。
ペルー政府からの真摯な要請を引き受けることに決めた加藤氏は、会社を2年間の休職扱いとして、南米ペルーへと旅立つ。
ペルーで監督となる
ペルー女子バレーの監督となった加藤氏だったが、日本の女子バレーとの差は歴然だった。
当時のペルー女子バレーはあまりにも未熟で、練習時間はわずか1時間。お嬢様が趣味程度にしか練習していなかったのだ。
もちろん世界的にレベルは低く、オリンピックには出場すらできていなかった。
そんな現状を打破するため、「東洋の魔女」の練習風景などのフィルムを見せ、厳しい練習を課す加藤氏だったが、選手たちはすぐに練習に音を上げ、挙げ句の果てには逃げ出す選手が続出した。
新聞には、「非人道的な練習」「野蛮な国から来た野蛮な監督」など批判記事が掲載されるが、それでも加藤氏は諦めなかった。
自らの足でペルーを歩き回り、才能のある選手をスカウトしていったのだ。
それからの加藤氏はバレーの練習だけでなく、精神面や生活面も選手たちに指導。
練習後はたびたび選手たちと食卓を囲み、「スキヤキ」を振る舞ったり、得意のギターを弾いて、坂本九氏の「上を向いて歩こう」をよく一緒に歌ったそうだ。
こうして家族同様の交流を深め、加藤氏の熱意が選手たちに伝わったチームの実力は格段に向上していった。
そして1967年、日本で開催された世界選手権。この大会が終われば、加藤氏は監督就任期限を迎え、日本に帰国することになっていた。
結果は残念ながら出場国中最下位で、日本にはペルー1:日本15という大敗。それと同時に加藤氏の2年間の休職期間も終わりが近づいていた。
加藤氏は期間の延長を求めたが、会社に却下されてしまう。
ペルーの「英雄」となるが…。
残念な結果が心残りのまま、空港でペルーの選手団を見送る加藤氏だったが、別れを惜しむ選手団と加藤氏の姿が奇跡を起こす。
別れを惜しむペルー選手団の姿が新聞の紙面を飾り、この記事を見た会社側が、「ここまで選手たちに慕われているならば」と、加藤氏にさらに1年間、休職期間を延長することが認められたのだ。
期間の延長が決まった、加藤氏率いるペルーチームは躍進する。
1968年に開催されたメキシコ五輪に初出場。惜しくもメダルには届かなかったが、主催国のメキシコ、韓国、アメリカを破り、4位入賞を果たす。
この快挙で加藤氏は「野蛮な監督」から一転、「ペルーの英雄」と呼ばれるようになる。
当時のペルーでは子供に“Akira”と名づける親が多かったそうだ。
それからの加藤氏は、監督業に専念することを決意。会社を辞めて代表監督としての指導を続け、ペルーに永住するつもりだった。
しかし、加藤氏は突然病に倒れてしまう。ウィルス性急性肝炎だった。
加藤氏は監督を辞任し、それから10年以上にわたる長い闘病生活を余儀なくされる。
1982年、女子バレー世界選手権がペルーで初めて開催されることが決定。とても喜ぶ加藤氏だったが、既に体力の限界が近づいていた。
そして加藤氏は1982年3月20日、49歳の若さでその生涯を終えた。
死の翌日には新聞各紙は「ペルーは泣いている」との見出しで、その悲しいニュースを伝えた。
首都のリマでは、協会の鐘が打ち鳴らされ、弔意を表す車のクラクションが、一晩中鳴り止まなかったという。
葬儀には約5万人のリマ市民が参加し、ベラウンデ大統領が弔辞をよせ、参列した加藤氏の教え子たちは、かつてともに歌った「上を向いて歩こう」を、涙ながらに合唱したのだった。
加藤氏の死から半年後に開催された、女子バレーボール世界選手権で、かつて大敗した日本と対戦したペルーは、なんと日本から初勝利を飾った。
ペルーは日本を破り準優勝、銀メダルという快挙を達成。日本人である加藤明氏が、ペルー人となって17年かけて蒔いた種が花を咲かせた瞬間だった。
その瞬間に大量の花吹雪がコートに舞い、客席からは「アキラカトウ」の大声援が鳴り響いたそうだ。
ペルー大使公邸の緑地帯には加藤氏の記念碑も建てられ、名前を冠した「アキラ・カトウ小・中学校」も設立されている。
まとめ
加藤氏のお墓は歴代大統領と並んで建てられており、彼の命日には今でも献花に訪れる方がいるそうだ。
世界選手権でペルーが日本を破り、銀メダルを獲得したことは、天国の加藤氏に対してこれ以上ない手向けとなっただろう。
加藤明氏を、同じ日本人として誇りに思う。