のぼうの城ネタバレとあらすじを結末まで!キャストもご紹介!
今夜21時00分からの「月曜ゴールデン」に、映画『のぼうの城』特別編集版が放送される。
壮大なスケールで描かれる戦国エンタテインメント超大作が公開されたのは2012年11月2日。
実話に基づいた本作は、犬童一心監督と樋口真嗣監督が異色のダブル監督に挑み、直木賞候補にもなった和田竜氏のベストセラー小説を映画化した見どころ満載の超大作だ。
今回は、映画化実現まで8年以上を要した戦国エンタテインメント超大作『のぼうの城』のネタバレとあらすじ、豪華キャストをご紹介したい。
「のぼうの城」キャスト
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「のぼうの城」あらすじとネタバレ
天正18年(1590年)
豊臣秀吉は天下統一を目指し、関東一円を支配する最後の敵対勢力・北条氏の攻略に着手した。
関東平野には北条氏本拠である小田原城、その周りには北条方の22の支城が守りを固めていた。
豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は各地の支城の城主に籠城に参加するよう通達。
・籠城
城などの中にたてこもって敵を防ぐこと。「―作戦」
出典:dictionary.goo.ne.jp
北条方の支城の一つであり、周りを湖に囲まれた忍城(おしじょう)。
城主・成田氏長の従兄弟である成田長親は、「でくのぼう」を略して『のぼう様』と呼ばれ領民からも親しまれていた。
そんな長親に密かに想いを寄せる城主の娘・甲斐姫。
長親の幼馴染で成田家一の家老・丹波。
その丹波と張り合っている豪腕の和泉。
戦の経験は無いが、毘沙門天の化身を自称する酒巻。
忍城の仲間たちに緊張が走る中、成田氏長は長親に城を任せ、「速やかに開城せよ」との言葉を残して小田原城に向かっていた。
氏長は北条氏に従うように見せかけており、裏では豊臣側へ寝返っていた。
秀吉は2万の軍勢で北条氏を落とすよう、家臣・石田三成に命じており、遂に忍城は天下軍に包囲される。
仕方なく開城することを決意した長親たちだったが、忍城を訪れた長束正家のなめきった態度や「甲斐姫を秀吉に差し出せ」という要求に長親は激怒。
腹は決めておらなんだが、今決めた。
「戦います」。
『戦場にて相見えると申したぁー!』
しかし、2万の軍勢に対して忍城の軍勢はたったの500人。
丹波たちは困惑したが、和泉を筆頭に成田家家老たちは戦うことを決意する。
一方、2万の軍勢を率いる三成は長親の“意外な返答”に喜んでいた。
戦で名をあげることに闘志を燃やす三成だったが、三成を支えるよう命を受けた大谷吉継だけは、意外な返答に警戒心を抱いていた。
その後長親は総大将となり、丹波は農民たちにこれから「戦」となることを説明した。
農民たちは反対だったが、丹波が「戦」を選択したのは長親だと伝えると、農民たちは大笑い。
農民たちは長親に加勢することを決め、忍城の軍勢は農民らを含めて約3000人になった。
長親は領民たちの前で開戦の報告をするが、涙を流す長親は逆に領民たちから励まされた。
わしが無理ゆうて、戦にしてしもうた!
みんな、ごめーーん!
ついに天下軍と開戦するが、忍城軍は士気が高かった。
丹波、和泉、酒巻を筆頭に、農民たちも侍に劣らぬ活躍を見せた。
地の利を生かし、鉄砲や火攻めなどの戦術で天下軍を退け、緒戦は忍城軍の圧勝だった。
忍城軍の奮闘ぶりは三成の想像を超えており、三成は作戦を変更して“水攻め”で落とすことを決断した。
三成は忍城の南北に位置する利根川と荒川に着目。
農民たちを雇い、忍城の周りに巨大な堤防を築いた。
丹波は水攻めに危機感を抱いていたが、長親は心配していなかった。
完成した堤防からは濁流が流れ出し、忍城の領民たちは高台にある本丸に必死に逃げ込んだ。
忍城は本丸を除いては水に沈み、本丸は意気消沈した領民で溢れかえっていた。
すると、追い詰められた長親が「水攻めを破る」とつぶやいた。
その夜、長親は城を囲む湖に船を出し、敵兵の前で「田楽踊り」を披露。
長親の踊りは敵味方を瞬時にまとめたが、それを見た甲斐姫と丹波は長親の気持ちを理解していた。
長親は自らが犠牲となり、忍城軍の士気を取り戻すつもりだったのだ。
「のぼうの城」結末
三成は秀吉が「水攻め見物にくる」ことに焦り、長親を鉄砲隊に狙わせる。
大谷は「下手に手を出せばこちらが窮地に追い込まれる」と三成を止めるが、三成は大谷の助言を無視した。
長親は肩を撃たれて湖に沈んだが、丹波が湖に飛び込んで長親を救出。
長親が撃たれたことで忍城軍は士気を取り戻し、さらには城外で堤防を築いた農民たちが反撃に出る。
村を出ていた「かぞう」たちが堤防を破壊。水は逆流して天下軍を襲い、忍城から水が抜けていった。
その後三成が軍総出で攻撃を仕掛けようとするが、「小田原城の落城」の知らせを受け、忍城は開城となってしまう。
三成と長親は対面し、開城の条件を聞かされた。
長親に想いを寄せる甲斐姫は秀吉の側室となったが、小田原城が落城するまでの間、もちこたえた支城は忍城だけだった。
三成は最後に、「よき戦にござった!」と叫んで忍城を後にした。
成田長親はその後、出家して自永斎と名乗り、晩年は尾張国で余生を過ごしたという。