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村崎太郎が「日光さる軍団」として復活!経歴と新たな挑戦に迫る!

      2015/08/08

「反省!」などの猿回し芸で相棒の次郎と共に、かつては一世を風靡した村崎太郎氏。様々なメディアにも登場し、中でもあの伝説的番組「笑っていいとも」出演がきっかけとなり、次郎の反省ポーズは社会現象となった。

そんな村崎氏はGW初日の4月29日から新たな挑戦を開始したことでも注目を集めている。猿まわし師・村崎太郎氏の新たな挑戦に迫る。

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出典:株式会社オフィス愛

猿まわし師・村崎太郎とは?

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プロフィール

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出典:matometa.org

名前:村崎太郎(むらさきたろう)
生年月日:1961年3月10日(54歳)
出身地:山口県光市
血液型:AB型
身長:171㎝
その他:(株)太郎倶楽部代表取締役
 

 

経歴

村崎氏は1977年、猿まわし師であった父(村崎義正氏)が「周防猿まわしの会」を結成したのを期に、猿まわし芸の後継者として指名される。

当時高校2年の17歳だった村崎氏だがニホンザルの「次郎」とコンビを組み、漫才などを取り入れた芸で日本の伝統的な猿まわしを発展させていく。

なお猿まわしの歴史は古く、江戸時代には徳川幕府の専属の職業として確立していた。

江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(引)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。
出典:wikipedia

1980年に上京した村崎氏は、銀座数寄屋橋交差点で猿まわしを披露し話題となる。

そして1988年、フジテレビ系「笑っていいとも」に出演すると、村崎氏の膝の上に手をつく次郎の“反省ポーズ”が社会現象となり、「反省だけなら猿にもできる」というギャグまで流行した。

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出典:TBS

それからはメディアへの露出も増え、全国区の知名度を獲得した「太郎次郎」は1992年にはアメリカ、1995年には中国でも講演をして話題を呼んだ。中国ではあの上海雑技団の舞台にゲストとして出演をしている。

そして1996年には常設劇場「次郎おさるランド」をオープンする。

 

借金を抱えうつ病を患う

「次郎おさるランド」のオープンでメディアへの露出もさらに増え、テレビ等で「太郎次郎」を目にすることは多かった。が、ここ数年は全くといっていいほどその姿を見なくなった。

原因としてあげられるのが「次郎おさるランド」の経営失敗によるものだった。資金繰りが上手くいかずランドは閉園となり、多額の借金を抱えてしまった村崎氏はうつ病を発症してしまう。

「死」を考えた期間が20年以上も続いていたようだ。

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村崎太郎氏の新たな挑戦!

日光猿軍団、継承

多くのファンに惜しまれながら、2013年の大みそか公演を最後に閉園したテーマパーク「日光猿軍団」。村崎氏のライバルであった日光猿軍団は1991年に結成され人気を博していた。

当時「猿まわし芸」といえば、間中敏雄氏が率いる日光猿軍団か、村崎氏が率いる次郎おさるランドという2大巨頭で、共に時代をつくってきた。

そんな日光猿軍団は猿の高齢化と東日本大震災をきっかけに、外国人調教師の帰国による後継者不足が理由となり、間中氏はやむなく閉園を決断した。

日光猿軍団が閉園することを知った村崎氏は施設を継承しようと一念発起するがそう簡単にはいかなかった。当初間中氏は芸に対するスタンスの違いから、村崎氏を苦手としていたからだ。

間中氏は大勢の猿達を自由に動き回らせ、アドリブ混じりの掛け合いで観客を引き込むというスタイルだった。

対する村崎氏は完璧な芸を猿に求めるというスタイルだ。

このスタンスの違いから交渉は難航したが、復活を求めるファンからの電話や手紙に後押しされたことと、間中氏のもとを50回以上訪れた(東京~栃木)村崎氏の熱意に負けた間中氏が折れる形となり、村崎氏が2代目校長となることに同意した。

 

村崎氏は間中氏から赤いジャンパーを引き継ぎ、間中氏は涙を浮かべると村崎氏も厳粛に受け止めた。

パークの名称はひらがなの「日光さる軍団」と改めた。

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出典:twitter.com/1001ptsJP

4月29日の初回公演には330人が訪れ、4代目次郎(オス8歳)やさくら(メス5歳)を中心とした公演は無事に終了した。

人気グループEXILEを意識した「サルザイル」や「大喜利」などの集団芸に会場は大笑いだったようだ。

 

 

まとめ

日光猿軍団は閉園後に、跡地を“買収したい”と、かなり高額なオファーが村崎氏以外にもあったそうだ。それでも村崎氏は間中氏を信じて、最後の最後まで日光猿軍団を継承しようと諦めなかった。

一方の間中氏は高額オファーを受けていれば悠々自適過ぎる老後をおくれていたであろうことは想像がつく。しかし間中氏はその話を断り、芸の発展のために村崎氏を信じ、託した思いがとても男気に溢れている。

この挑戦に敗れれば自分に未来はないとまで語っていた村崎氏。

様々な人の、様々な思いで復活した「日光さる軍団」の活躍に今後も期待したい。

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