ボヘミアンラプソディのネタバレとあらすじ!結末と声優も
今夜21時00分からの「金曜ロードSHOW!」に、金曜ロードショー35周年記念として『ボヘミアン・ラプソディ』が本編ノーカットで地上波初放送される。
クイーンのメインボーカル、フレディ・マーキュリーの半生を描いた物語が公開されたのは、2018年11月9日。
世界が熱狂したバンドの光と影、名曲の誕生秘話、そして圧巻のパフォーマンスの数々が見事に再現されている。
今回は、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』のネタバレとあらすじをご紹介したい。
「ボヘミアン・ラプソディ」声優キャスト
「ボヘミアン・ラプソディ」あらすじとネタバレ
1985年7月13日、20世紀最大のチャリティーコンサート・「LIVE AID(ライブエイド)」当日。
ウェンブリー・スタジアムで身支度を整えたフレディ・マーキュリーは、大観衆が待つステージに向かった…。
1970年・ロンドン。
フレディ・マーキュリーと名乗る青年ファルーク・バルサラ(フレディの出生名)は、空港で荷物の積み下ろしの仕事をしていた。
家庭はゾロアスター教で父親は厳しく、その夜もフレディは「将来を考えろ」と注意された。
善き思い、善き言葉、善き行動を心がけろ。
それを守っていいことあった?
その後、ライブハウスに向かったフレディは「スマイル」というバンドに魅了され、演奏後に近くにいた女性・メアリーにメンバーの居場所を訪ねた。
するとフレディはメアリーの美しさに一瞬で心を奪われ、名残惜しそうにギターのブライアン・メイとドラムのロジャー・テイラーに自分を売り込みにいった。
やがて2人を発見したフレディはコンプレックスの「出っ歯」を馬鹿にされるが、その場で歌声を披露して2人を圧倒した。
過剰歯で口の中が広い分声域も広い。
オファー考えとく。
その後、メアリーのことが気になっていたフレディは、メアリーが働いている服屋に向かった。
メアリーと再会したフレディがその店のレディース服を気に入ると、メアリーは気にすることなく試着させてメイクも施した。
そしてその夜、「スマイル」に加入することになったフレディとベースのジョン・ディーコンは初めてステージに立つことになった…。
1年後。
フレディたちはアルバムを制作するためワゴン車を売り、バンド名を改名して『Queen』が誕生した。
※フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury):リードボーカル
※ブライアン・メイ(Brian May):ギター
※ロジャー・テイラー(Roger Taylor):ドラム
※ジョン・ディーコン(John Deacon):ベース
そしてスタジオに閉じこもってファーストアルバム・戦慄の王女を完成させると、その様子をEMI(イギリスのレコード会社)のスカウトが見ていた。
そんな中、メアリーと愛猫(トムとジェリー)と同棲していたフレディは家族に紹介し、皆で食事をしていると一本の電話が鳴った。
その相手はエルトン・ジョンのマネージャー「ジョン・リード」で、クイーンのデモを聞いたリードはフレディたちと顔合わせをすることになった。
するとフレディたちは大物を相手に堂々と話し合い、リードからマネージャーとしてポール・プレンターを紹介された。
また、リードはすでにクイーンのテレビやラジオ出演を計画しており、無名の新人・クイーンの活動が本格的にスタートすることになった。
その後、BBCの音楽番組に出演したクイーンは『口パク、演奏するフリ』を求められると、そのやり方に我慢しながら「キラー・クイーン」を披露した。
すると瞬く間にクイーンは話題となり、アルバムはチャートインしてアメリカツアーもすぐに決定した。
そんなクイーンの人気はアメリカでも凄まじく、チケット完売の大成功を収めてイギリスに帰国した。
その後、フレディたちはリードから弁護士のジム・ビーチ、EMI幹部のレイ・フォスターを紹介され、レイは「キラー・クイーンのような新曲が欲しい」と言った。
しかし、フレディたちは「二番煎じは作れない」と返事をし、突然レコードをかけたフレディは『オペラ規模のロックアルバムを作る』と言い放った。
僕らは同じ手法を何度も繰り返さない。
繰り返しは時間の浪費だ。
新作のタイトルは「オペラ座の夜」だ。
ギリシャ悲劇の悲哀、シェイクスピアの機智、
音楽劇のあふれんばかりの喜び…体験する音楽だ。
やがてフレディたちの言葉を聞いたリードは賛成し、弁護士のジムは『幸運は勇者に味方する』と言った…。
1975年、ロックフィールド農場。
古い納屋を改装した伝説のスタジオでレコーディングが始まり、フレディはメアリーの曲として「ラブ・オブ・マイ・ライフ」を制作した。
その歌声を近くで聴いていたポールはフレディに突然キスをしたが、フレディは「望みを投影してる」と言ってやんわり断った。
やがてフレディはメンバーそれぞれに「オペラパート」を指示し、フレディたちは喧嘩をしながら“予定の3週間オーバー”でアルバムを完成させた。
しかし、アルバムを聞いたレイは予算オーバーの上に「ボヘミアン・ラプソディ」の“6分”という長さに驚き、『3分以上の曲はラジオ局がかけない』と言って反対した。
そしてボヘミアン・ラプソディを「シングル曲」として発表するつもりだったクイーンとレイは対立することになり、フレディたちは『クイーンを失った男と呼ばれろ』と言い残して部屋を飛び出した。
金は私が出した。従うんだ。
法的にはレイが君らのタ〇を握ってる。だが大衆法廷は話が別。
業界でレイの名はビッグだが、世間では違う。
クイーンと言えば、耳を傾ける。
するとフレディは自らキャピタル・ラジオに出演し、普通ならかけてもらえないボヘミアン・ラプソディを独占初公開することに成功した。
やがてマスコミや評論家からは不自然、詩的でない、寄せ集め、不可解な歌詞…と叩かれまくるが、翌年の1976年にはボヘミアン・ラプソディが収録されたアルバムは爆発的なヒットを記録し、クイーンはその勢いのまま世界各地でライブを行った。
そんな中、メアリーはフレディの‟ある変化”に気づいており、自問していたフレディはその悩みをメアリーに話した。
そしてフレディが「俺はバイセクシャルだ」と恐る恐る打ち明けると、メアリーは『あなたゲイよ』と即答した。
ずっと認めたくなかったメアリーは『つらいのは、あなたが悪くないこと』とつぶやき、フレディは指輪を外そうとしたメアリーを必死で止めた。
私に何を望むの? 君と生きていきたい。
なぜ? 信じ合ってるだろ。
それが俺たちにはすべて。 これからの人生は大変よ…。
1980年、ロンドン。
短髪にしてヒゲを生やしたフレディは豪邸に引っ越し、離婚したメアリーには隣の家をプレゼントした。
メンバーは次第に家庭をもつようになり、孤独を感じるようになったフレディはパーティー三昧の生活に溺れていった。
そんなある日、フレディはウェイターをしていたジム・ハットンと出会い、すぐに恋愛感情を抱いたフレディは「君が好きだ」と言った。
するとハットンは笑みを浮かべ、「本当の君を見つけたら会おう…」と言ってすぐに立ち去った。
フレディの遅刻が増える中、ブライアンはメンバーや奥さんたちをステージに立たせて「観客とひとつになる」と言った。
そしてブライアンは「2回足踏みして手拍子1回」という動作を繰り返させ、『ドン・ドン・パ』のリズムでその場を盛り上げた。
するとそこへフレディが到着し、遅刻を詫びて「歌詞はどうする?」とブライアンに尋ねた。
やがて新曲「ウィー・ウィル・ロック・ユー」が誕生し、お馴染みのリズムの曲はクイーンの定番曲となっていった。
そんな中、ポールとリードがライブ後の打ち上げでクイーンの活躍ぶりを喜んでいると、ポールが「フレディにソロの話が…」とリードに打ち明けた。
するとリードはマイケルジャクソンを引き合いに出し、フレディに『君なら彼を上回れる』と言った。
去年、世界のレコード売り上げの4%は誰が占めたと?
マイケルジャクソンだ。ジャクソン5じゃない。
バンドを解散させろと? ソロになった場合の条件の話さ。
クビだ…。 さっさと降りろ!
こうしてリードは車から降り、フレディに「裏切り者は別にいる」と言い残した。
するとポールは「俺は反対した。欲深いやつだ…」とフレディに言った。
1982年、ロンドン。
フレディは新作アルバムの記者会見でコンプレックスの出っ歯、そしてセクシュアリティな質問をされ、乱暴な返答を繰り返してしまった。
その後、クイーンは「アイ・ウォント・トゥー・ブレイク・フリー」で女装姿を披露したが、MTVは過激なPVとして放送禁止にした。
さらにフレディは「アルバムとツアーの繰り返しに飽きた」と言い出し、メンバーを困惑させて『400万ドルのソロ契約をした』と言った。
僕らは家族。 いや違う!
君らは家族がいる。でも俺は?
400万で家族を買えばいい。
そしてフレディは「誰も必要ない」と言い放ち、1人で部屋を飛び出した…。
1984年、ミュンヘン。
フレディは酒に依存しながら昼夜を問わずアルバム制作に取り組み、ポールはメアリーの電話もフレディにつなぐことはしなかった。
そんな中、新マネージャーに就任したジムが20世紀最大のチャリティーコンサート・「LIVE AID(ライブエイド)」のオファー話を持ってくるが、ポールは「彼は忙しい」と答えてフレディに伝えなかった。
一方、連絡が取れないメアリーはフレディの滞在先を訪ね、酒浸りで生活が荒れているフレディの体調を心配した。
また、フレディはメアリーからライブエイドの話を聞いたが、フレディは「今はアルバム優先だ」と答えた。
するとその直後に「大勢の客」を連れてポールが帰宅し、タクシーに乗り込んだメアリーは『家に戻って…』とフレディに伝えた。
怖いんだ。
怖がる必要なんかない。あなたは愛されてる。
私やバンドの皆はあなたの家族よ。
ここの人たちはあなたを気にかけてない。ポールは気にかけてない。
ここにいてはダメ。
そしてフレディはライブエイドを伏せていたポールを激しく非難し、雨に打たれながら『俺の元から消えろ…』と言った。
全部俺のせいってわけか? 自分を責めてる。
過去を忘れたか?写真だってある。
本当にクズなんだな。腐ってる。
写真流出でも告白でも好きにしろ。だが約束してくれ。
その顔を見せるな。二度とな…。
こうしてポールと決別したフレディは、クイーンに復帰するためメンバーと話し合った…。
「ボヘミアン・ラプソディ」結末
フレディは身勝手でうぬぼれていたことをメンバーに謝罪し、『君らが必要だ』と言った。
すると冷静に考えたかった3人はフレディを一度部屋から出し、3人は「今後はすべての曲がクイーン名義でギャラも均等だ」と伝えた。
そしてフレディはそれを快諾し、ようやくクイーンは復活した。
その話を聞いていたジムはライブエイドへの出演を打診したが、何年も演奏してないメンバーは大舞台に立つことに抵抗を感じていた。
ウェンブリーとJFKスタジアムに10万人ずつ。
世界150ヵ国に中継するための衛生は13基。オリンピックは3基だ。
何百万人もの前など無理だ。 正しくは15億人以上だ。
すると黙って聞いていたフレディが口を開き、その言葉に納得したメンバーは出演を決意した。
これだけは言える。
出演を断れば、コンサートの翌日から俺たちは死ぬまで出なかったことを悔やむ。
お願いだ。
一方、ずっと体調不良が続いていたフレディは病院で診察を受け、エイズに感染していることが判明する。
やがてフレディはメンバーに感染していることを告白し、驚きを隠せない3人に向かって「このことで同情して俺を退屈させないでくれ」と言った。
残された時間で音楽を作る。それが俺の望みだ。
病に侵された悲劇の主人公でいるつもりはない。
俺が何者かは俺が決める。
俺が生まれた理由、それはパフォーマーだ。
皆に望むものを与える。最高の天国を。
それがフレディ・マーキュリーだ。
そしてロジャーが「お前は伝説だ」と言うと、フレディは『そのとおりさ。俺たち全員がね』と答えた。
ライブエイド当日。
フレディは早朝から愛猫の前で発声練習し、自宅を出てジム・ハットンに会いに行った。
久しぶりの再会にハットンは驚いたが、フレディに誘われるがままにフレディの実家に同行した。
そしてフレディは両親の前でハットンと手を繋ぎ、ハットンとの関係とライブエイドへ出演することを報告した。
アフリカの子供たちを救う。誰も出演料は取らない。
善き思い、善き言葉、善き行いだ。
父さんの教えと同じ。
その後、スタジアムに入ったフレディの楽屋にメアリーと恋人・デヴィッドが駆けつけ、フレディは2人にハットンを紹介した。
そしてついにクイーンの出番となり、フレディたちは大観衆の前に飛び込んだ。
フレディたちは「ボヘミアン・ラプソディ」から始まり「レディオ・ガガ」「ハマー・トゥ・フォール」「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」を披露し、その圧巻のステージに観衆は熱狂した。
一方、ライブエイドの舞台裏はクイーンが登場してから電話が殺到し、瞬く間に100万ポンドの寄付を達成した。
やがて演奏が終わるとクイーンはステージ中央に集まり、フレディは観衆に向かって『お別れだ!愛してる!』と叫んだ…。
※フレディ・マーキュリーはエイズによる肺炎で1991年11月24日に死去。(享年45)
※ハットンとは彼が亡くなるまで恋人関係にあった。
※メアリーとは終生友人であり続けた。
※ボヘミアン・ラプソディは彼の死の2週間後に再リリースされて1位を獲得。最初の発表から16年後だった…。