野並直文社長の経歴!シウマイの崎陽軒社長がカンブリア宮殿に!
2015/09/11
今夜21時54分からの「カンブリア宮殿」に、シウマイ弁当を始めとした駅弁を販売する崎陽軒社長、野並直文(なおぶみ)氏が出演する。
創業107年、日本一の駅弁メーカーとして知られる崎陽軒は、地元横浜ではソウルフードとして愛され、地元住民の心を鷲掴みにしている。
今回は、冷めても美味しいシウマイを作る崎陽軒社長、野並直文氏をご紹介したい。
野並直文のプロフィールと経歴
プロフィール
生年:1949年(66歳)
出身地:神奈川県
出身校:慶應義塾大学商学部
趣味:ウォーキング
役職:株式会社崎陽軒代表取締役社長
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経歴
1949年生まれの野並氏は、1971年に慶應義塾大学商学部を卒業している。(同大大学院経営管理研究科修了)
野並氏は学生時代から崎陽軒でアルバイトをしており、翌年の1972年、23歳で株式会社崎陽軒に入社。
31歳まで弁当やシウマイ作りなど現場で経験を積み、1979年に取締役に就任。
そして1991年、42歳という若さで取締役社長に就任し、崎陽軒3代目社長となっている。
野並氏はバブル崩壊後に社長に就任しているが、引き継いだ借入金約20億円をゼロにしている。
崎陽軒の歴史
1908年(明治41年)に創業した崎陽軒。
崎陽軒の名は、創業者の出身地である長崎の別称「崎陽」に由来しており、当初は横浜駅構内で寿司や牛乳、サイダーなどを売っていたという。
大きな駅には必ず名物となる食べ物があるが、当時の横浜駅には名物がなかった。
「シウマイ王」と呼ばれ、崎陽軒の初代社長である野並茂吉氏は「このままでは崎陽軒に先はない」と考え、中華料理店の突き出しだった“シウマイ”に目を付け、昭和3年に「横浜名物シウマイ」を世に送り出した。
時間がなくても列車の中で手軽に食べれて、冷めても美味しいシウマイは、茂吉氏が南京街(現在の中華街)から点心職人をスカウトし、試作品づくりから1年後に完成。
豚肉に干帆立貝柱を混ぜた独自のレシピは、発売開始以来変わっていない。
さらに、崎陽軒のシウマイは大きさも計算されている。普通の中華料理店よりひと回り小さい理由は、「列車の中で食べる際、ガタガタ揺れて食べづらい」ため小粒になっている。
1950年(昭和25)には、横浜駅のホームで駅弁形式で販売するスタッフ「シウマイ娘」を考案。
「シウマイ娘」は毎日新聞に連載された獅子文六(ししぶんろく)の横浜を舞台にした小説『やっさもっさ』に登場。
映画やラジオ、漫才などにも登場して大きな話題となった。
1954年(昭和29)、崎陽軒の2代目社長となる野並豊氏は、32歳の時に有名になったシウマイをもっと広げようと「シウマイ弁当」を考案。
これが販売開始と同時に大きな反響を呼び、シウマイと並ぶ崎陽軒の2大看板となり、1955年(昭和30)にはひょうたん型をした磁器製の醤油入れ、「ひょうちゃん」も誕生した。
2代目社長となった豊氏は“シウマイを地方へのお土産にしたい”という声に応えるべく、常温なら10日間、5℃以下なら1ヶ月保存可能な「真空パックシウマイ」を1967年(昭和42)に発売。
「真空パック」という言葉は崎陽軒が独自に発案した名称で、真空パックシウマイは横浜土産として、全国に知られるようになった。
現在崎陽軒本店には結婚式の披露宴などができる会場があり、そこで披露宴を行う年間約100組以上のカップルが、ケーキの替わりに「ジャンボシウマイ」に入刀している。
「思い出に残る演出」として人気があり、これを目当てに崎陽軒本店で披露宴をするカップルも多いそうだ。
現在崎陽軒は従業員数512名、2014年度の売上高が212億8800万円。
1日で3万2000食を売る、日本一の駅弁メーカーとなっている。
まとめ
崎陽軒のシウマイが「シューマイ」ではなくシウマイなのは、栃木生まれの初代社長、茂吉氏のなまり説や、中国の発音説、シウマイの中の“ウマい”という文字を活かしたという説など諸説ある。
飽きが来ず、いつも「また食べたい」と思わせてくれる崎陽軒の社長が何を語ってくれるのか。
今夜の放送も楽しみである。