マチュピチュ村初代村長が日本人だった!?野内与吉氏の生涯に迫る!
2015/04/19
標高2430mに位置する南米ペルーの世界遺産マチュピチュ。その麓にあるマチュピチュ村を創ったのは、人生を村に捧げた1人の日本人だった。今では年間200万人が訪れているマチュピチュ村の初代村長、『野内与吉』氏の壮絶な生涯に迫る。
目次
マチュピチュ村とは?
険しい崖の上で霧の中から浮かび上がる、謎に包まれた空中都市「マチュピチュ」。一生に一度は訪れたいと思う方も多いだろう。
ちなみにインカ帝国の遺跡として知られるマチュピチュはアメリカの探検家、”ハイラム・ビンガム”の発見から、100年以上経っている。
1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
出典:wikipedia
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そんなマチュピチュの麓にあるマチュピチュ村は、20世紀の前半から林業や鉄道建設で発展を遂げ、世界中からマチュピチュを目指して訪れる旅人達の拠点となっている。
出典:バリアフリー旅なかま
カフェやレストラン、お土産屋が多数ある
マチュピチュ村の人口は約3000人、半日もあれば周りきれる村だが、年間200万人が世界中から訪れることから観光客向けのお土産屋が多い。バーやレストランも多数あり、中には日本食のレストランもある。
立派なホテルに温泉まである
マチュピチュ村には格安な宿から高級ホテルまで、宿泊施設も充実している。ホテルよってはインターネット(Wi-Fi)もきちんとつながる。
出典:twitter.com
またマチュピチュ村には温泉もある。温泉というかプールのような雰囲気もあるが、多くの人が集まる多国籍温泉だ。マチュピチュ村はかつてアグアス・カリエンテス(熱い水)と呼ばれていて、その由来となったのがこの温泉だ。
この温泉は日本の温泉と比べると少しぬるめで、なぜかは分からないが、下には砂が敷かれている。なお入浴の際には水着の着用が必要となっている。
しかし世界遺産マチュピチュの麓にこんなに充実した村があるとはなんとも驚きだ。世界中から人が集まる土地はやはり栄える。もはや村レベルではなく一大観光施設のようだ。
マチュピチュ村初代村長『野内与吉』氏とは?
今ではリゾート地のように栄えるマチュピチュ村の初代村長「野内与吉」氏は1895年、福島県安達郡大玉村に生まれた。
出典:東京大学総合研究博物館
裕福な家庭に生まれるも、ゴムの景気に沸いていた「南米で成功したい」という希望を胸に、1917年に契約移民としてペルーに渡った。農園で働くも契約内容と実地の違いから1年で辞め、アメリカ、ブラジル、ボリビアなどを周り、1923年に再びペルーの土地を踏むことになる。
ペルーに戻った野内氏は、ペルー国鉄クスコ~サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、電車の運転や線路拡大工事に携わった。1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路を完成させる。
出典:OTOA
手先が器用で頭がいい
手先がとても器用だった野内氏は、何もなかったマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作ったり、水力発電を考え、村に電気をもたらした。
また、マチュピチュ村の温泉は、野内氏が村の拡大のために木を伐採していた際に湧いたそうだ。野内氏は創意工夫に富み、村で故障した機械の修理も率先して行うなどマチュピチュ村のために尽くし、村の皆に大変喜ばれていた。
色々な国を渡り歩いた野内氏は語学も堪能で、スペイン語や英語、先住民の言語「ケチュア語」にも通じ、現地のガイドを務めるほどだった。のちにアンデス文明研究家となる、天野芳太郎がマチュピチュ遺跡を訪問した際も、マチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くしていた野内氏が案内した。
村の中心となった「ホテル・ノウチ」
1935年、野内氏は本格的な3階建て木造建築「ホテル・ノウチ」を建設。21部屋を持つ立派なホテルには材料として線路のレールが利用されたり、当時高価だった木材を利用した。驚くことに、野内氏は完成したこのホテルを村のために無償で提供し、1階は郵便局や交番として、2階は裁判所や村長室として利用されていた。
村にとって重要な役割を担う「ホテル・ノウチ」が中心となって、マチュピチュ村は発展していった。
初代村長の誕生
村人に信頼されていた野内氏は人望を集め、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務めた。しかし当時マチュピチュ村は正式な”村”ではなく、41年に正式な村となった。野内氏はその直前に実質的なトップについていたことから、マチュピチュ村「初代村長」となる。
1947年、川の氾濫により村が大きな土砂災害に見舞われる。そこで野内氏は住人達とともに、地方政府に緊急支援を依頼した。復興に尽力した野内氏は翌年の48年、地方政府から村長に任命され、改めてマチュピチュ村の「村長」となった。
福島へ帰郷、しかし・・・
1958年、三笠宮殿下がマチュピチュ遺跡を訪れた際に野内氏の長女「オルガ・野内」氏が花束を贈呈した。この新聞記事を福島の家族が目にし、初めて野内氏の消息を知ることとなる。そして1968年、野内氏は福島県大玉村に52年ぶりに帰郷することとなった。
野内氏の両親はすでに他界しており、兄弟や親戚達が歓迎した。野内氏は日本に着くと「電気は着いたか?」と質問した。野内氏の中で、時間は当時のまま止まっていたのだ。日本滞在中は新聞やラジオにも出演し、半世紀ぶりの帰郷に”現代の浦島太郎”と報道された。
家族は日本に戻るよう説得したが、自分の帰りを待つ11人の子供を思い、ペルーのクスコに戻る。そしてクスコに戻ったわずか2ヶ月後の1969年8月29日にその生涯を終えた。
まとめ
移民として遠いペルーで生きた野内氏の人生の過酷さはとても想像出来ない。リゾート地を思わせる今のマチュピチュ村を創った偉大な日本人「野内与吉」氏がいたという事実を日本人として誇りに思い、忘れてはならないだろう。
デヴィ夫人の公式ブログに当時の日本人移民について語られていた。
日本人が 初めて海外移住したのは 明治元年でした。 それ以降、
昭和の大戦終了時までに 移住した人は 北米20万人、 ハワイ20万人、
中南米20万人、 樺太28万人、 中国27万人に及んでいます。
主に 貧農の 二男、 三男 という人たちが一番多く移住され、
低賃金で過酷な労働を強いられ、 また 荒地の農園開拓者として
筆舌に尽くせぬ ご苦労をされたようです。
出典:デヴィ夫人公式ブログ
野内与吉の物語そして家族の記憶
出典:野内シーザー